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意味をもたせるには早すぎる絵画的散文詩/ドロレス

私はもともと文章を書くのが得意ではない。国語のテストの書き問題なんかは全く無視して提出したほど文章力がない。
それを変えたのは中学の副担任で、国語担当の先生だった。私は今や思い出せない程の些細な何かをきっかけに、彼女に恋をした。
彼女に気に入って欲しい、その一心で書き問題に答えるようになった。文章は相変わらず主題からかけ離れてしまうが、それでも彼女に採点してもらえるならと書いた。しかし、というかやはりというか、話は膨大に膨れ上がり、最終的に主題からかけ離れてしまう。
彼女は文芸部の顧問だった。私は美術部の部長だった。部室は隣同士。すきあらば彼女に話しかける。私の通っていた中学校では部活の掛け持ちが禁止されていた。私はせめて彼女の絵を描きたいと頼んだ。最後の文化祭には、私の描いた愛しい先生の油絵が飾られた。
そして、初めて書いた詩は、彼女への想いだった。これは彼女へは見せていない。卒業文集にも彼女への想いを綴ったが提出しなかった。
そこから私は詩について深く考えるようになった。文章が書けなくても、詩ならば簡単だと思った。

詩を書く時に気をつけていることがある。それは聞こえの良い単語と繰り返しのセンテンスとリズム。
同じ言葉を繰り返すことにより、想いが重くなると思っている。そしてリズムは、声に出した時、心地の良い音でなくてはならない。
擬音でもなんでも、耳に心地の良い音は好きだ。
そしてその言葉、単語に意味がなくとも、聞こえの良い音だけを選ぶ。
意味を込めた詩は重くなる。これは私にとって致命的だ。

意味をもたせるには私はまだ幼すぎる。だから見栄えのいい文字だけを拾い集め組み立てていく。
ただ単に愛を語るだけなら誰でも出来る。絵描きを目指していた人間として、そんな簡単なことを私はしたくない。
だから意味のない単語を連ねたり、めちゃくちゃな擬音を混ぜたりする。
先述のとおり、私には幸か不幸か共感覚で文字に色がついて見える。
それを考慮した上で単語を並べていくと、なんと絵画的なものか。
私は絵が描けなくなってしまった。その代替行為として詩を書き始めた。文字で絵を描くことを始めた。
シナスタジアで見るポエム24は、私にとって美術館のようなものである。
そしてこの目で最も美しく見える絵画は、セッカさん(@0vega)の詩だ。(聞いた話ではセッカさんにも共感覚(色聴)があるらしい。)
ポエム24のタグを辿り、私の目に美しい絵画をフォローしていく。この楽しみ方が間違っているか否かは各々の判断に任せたい。

私の詩は他人の理解を求めないのだ。
意味をもたせた時、その詩には伝わってほしい人間にだけ判るような暗号じみた言葉で想いを綴る。
それは単なる自己満足。伝わってほしい人間とは実のところ私のことなのだ。
私は私が好きだ。私が他人に恋をする時、それはナルシシズムの醜悪な変形が招いたことだと思っている。
そんなものを愛しているはずの人間に伝えたくない。
だから私はいつも適当な言葉を選んで文字を綴る。裏に想いを込めながらも、それを気付かれないように複雑化する。
恥ずかしがり屋だから、素直な気持ちを伝えられない。ラブレターさえ書けない。
だから意味のない綺麗なだけの言葉を並べて組み立てていく。それが私の詩だ。
詩とは、言葉とは、いかに脆弱な存在なのかを痛感した出来事があった。
声に出したほうが早いのだ。「好きです」たった四文字で伝わる。
そしてもっと言えば、声に出して伝えるよりも、たった一度のハグで何もかもが伝わることだってある。
だが、それでも私は詩作をやめない。絵をまだ諦め切れないからだ。

しつこいが、私は詩に意味を持たせたくない。散逸的に構造されたバラバラで意味不明の文章であってほしい。
それこそが私ができる、私が愛した絵画たちへのメッセージでもあるのかも知れない。
文字で絵画を描く、私にとって詩作とはそういう行為であってほしいと願う。


written by ドロレス(twitter ID/ Do1ores)
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